明日、母と一緒に、世田谷区にある世田谷文学館で開催されている「寺山修司展」を見に行くことになった。とりたてて、私と母が寺山修司のファンであるわけではない。私自身、寺山修司について知っていることは、昔、寺山修司が寺山修司自身を語る、みたいなテーマの動画を閲覧したことがあるのと、『田園に死す』というタイトルの映画があること(川上から雛壇が流れてくるシーンだけニコ動で観た。不気味だった。)、あと、伊集院光さんのラジオで寺山修司のラジオドラマ『黙示録』が面白いというので、わざわざAmazonで買って取り寄せて聞いてみたことがあるのと(正直大して面白くはなかった)、あとは、角川文庫から出ている『ポケットに名言を』というのを、人生訓的なものを集めたやつで、それをパラパラ捲ってみたことはある、程度である。以下、タモさんの『寺山修司』を。
あと、寺山修司が亡くなった年に、批評家の小林秀雄(1902-83)も亡くなっているというのを知識として知っている。誰かが言ったのを聞き覚えていて、調べてみたら、確かにそうだった。一応、寺山修司の人物像の概略を以下に引用する(太文字は引用者による)。
寺山 修司
テラヤマ シュウジ
昭和期の劇作家,演出家,映画監督,歌人,詩人 元・天井桟敷代表者。生年:昭和10(1935)年12月10日
没年:昭和58(1983)年5月4日
出生地:青森県弘前市紺屋町
出身地:青森県上北郡六戸村(現・三沢市・籍)
学歴〔年〕:早稲田大学教育学部〔昭和31年〕中退
主な受賞名〔年〕:短歌研究新人賞(第2回)〔昭和29年〕「チェホフ祭」,イタリア賞グランプリ〔昭和39年 41年〕,芸術祭賞奨励賞〔昭和39年 41年 43年〕,久保田万太郎賞(第1回)〔昭和39年〕「犬神の女」,芸術祭賞〔昭和42年〕,年間代表シナリオ(昭43年度 49年度 53年度)「初恋・地獄篇」「田園に死す」「サード」,サンレモ国際映画祭グランプリ〔昭和46年〕「書を捨てよ町へ出よう」(映画監督),芸術選奨文部大臣新人賞(第25回・昭49年度)「田園に死す」,日本作詩大賞作品賞(昭47 48年度)「ひとの一生かくれんぼ」「たかが人生じゃないの」(唄・日吉ミミ)
経歴在学中から前衛歌人として注目されたが、卒業後は既成の価値観や常識に反逆して“書を捨てよ町へ出よう”と呼びかけ、昭和42年には演劇実験室・天井桟敷を設立、作家兼演出家として多彩な前衛活動を展開して時代の寵児となった。著書「家出のすすめ」は多くの家出少年を天井桟敷に惹きつける一方、世間の反発を呼んだ。また競馬やボクシングの解説者としても活躍し、テレビアニメ「あしたのジョー」の主題歌の作詞も手掛けた。主な舞台に市街劇「ノック」や「盲人書簡」「疫病流行記」「奴婢訓」「レミング」「百年の孤独」など。著作に歌集「血と麦」「田園に死す」、小説「あゝ荒野」、戯曲集「血は立ったまま眠っている」、評論集「遊撃とその誇り」、長編叙事詩「地獄篇」など、映画作品に「トマトケチャップ皇帝」「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」などがあるほか、「寺山修司全歌集」(沖積舎)「寺山修司全詩歌句」(思潮社)「寺山修司演劇論集」(国文社)「寺山修司の戯曲」(全9巻 思潮社)がある。平成9年三沢市に寺山修司記念館がオープン。11年、’60年代に楽曲用として作っていた詞8編が見つかり、曲をつけてCD化される。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
「市街劇」とは初めて聞く言葉だ。調べてみると「街頭演劇」と同義語らしい。
街頭演劇 (がいとうえんげき)
因襲的な演劇の場所すなわち劇場を離れて戸外で新しい観客を開拓しようとする試み。その形式には二つの流れが考えられる。一つは従来のヨーロッパの演劇観に反発したA.アルトーの理論に基づき,ハプニングと同じように新しい美学を創造しようとする試みで,例えば1964年西ドイツのポップ・アーティストのウォルフ・フォステルは,ウルム市全体を使って街頭演劇を構成した。観客は全員バスに乗せられて,同市の空港,ガレージ,プール,ごみ捨て場などを案内されてゆくうち,日常次元とはまったく違う空間を再発見するのである。この種の試みは,寺山修司主宰の劇団〈天井桟敷〉がヨーロッパで上演した《人力飛行機ソロモン》や,東京の杉並区を使って上演した市街劇《ノック》や,イタリアの前衛演出家ロンコーニがパリの中央市場跡で上演した《狂えるオルランド》などに見られる。もう一つの流れは,20世紀初頭のアジ・プロ演劇(プロレタリア演劇)などを起源として政治的な表現行為を街頭で行おうとするもので,とくに60年代,ベトナム戦争を背景とするアメリカ合衆国にその実践が多く見られた。サンフランシスコ・マイム・シアターやエル・テアトロ・カンペシーノなどがよく知られているが,とくにシューマンPeter Schumannが主宰する〈パンと人形劇団〉は,巨大な人形を掲げて街頭を行進し,観客を巻き込んでしまう手法でとくにユニークな存在である。
執筆者:利光 哲夫出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」
ふーん。そういうものがあったのか。ここでいう「ハプニング」とは、美術用語らしい。一応その定義も転用。
ハプニング
happening
一回性の行為を中核とした表現形式を指す。〈偶発的なできごと〉を意味する日常的な英語であるが,1960年代,とくにアメリカの美術家たちが,表現の新しい領域として〈アクション〉に注目したとき,〈ハプニング〉は独特の響きをもつ美術用語となった。命名者はA.カプローで,1959年ニューヨークのルーベンReuben画廊で《六つの部分からなる18のハプニング》を発表したとき,この語が用いられた。三つの部屋で,光,映像,言葉,オブジェなどを伴って,多くの参加者がさまざまな行為を行った。この催しでは,ハプニングにおいて〈自発的な,起こるべくして起こる何か〉(カプロー)が重要視され,一回性の偶然や自発性が強調されたのである。カプローのハプニングの淵源には,J.ポロックのアクション・ペインティングとJ.ケージの偶然性の音楽があった。キャンバスを床にひろげ,体ごと中に入って激しいアクションによって絵具を飛び散らせたポロックは,肉体と意識の交錯を生(なま)の時間の中にさらしつづけたわけであるが,ハプニングは,この描く行為自体をさらに積極的に,純粋に演じようとした。また,50年代はじめ,ブラック・マウンテン・カレッジで教えていたケージは,〈生活のすべてと同じように,偶然と気紛(きまぐ)れと変化と乱雑さとほんの瞬間的な美しさを伴った行為〉を音楽のイベントとして展開していた。これは実際には,ハプニングのきわめて早い例で,このときの学生であったカプローは,そこから,〈日常と芸術との境目をあいまいにする〉ことを学んだのである。日本では,50年代前半に具体美術協会が野外や舞台で偶発的なアクションをくりひろげており,ハプニングの先駆例として評価されている。
60年代には,C.オルデンバーグ,ジム・ダイン,レッド・グルームス,ラモンテ・ヤング,小野洋子,ナムジュン・パイクら,フルクサスのメンバーをはじめとする多彩な芸術家がニューヨークその他でハプニングを発表し,ヨーロッパではJ.J.ルベル,W.フォステル,J.ボイスらの試みがあった。日本でも,ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ,ハイレッド・センター(高松次郎,赤瀬川原平,中西夏之ら)などのグループや一柳慧(いちやなぎとし),小杉武久ら音楽家のハプニングが知られている。60年代末には,R.ラウシェンバーグらのEAT(イーエーテイー)(1969結成)が,テクノロジーとアクションを織りまぜた大がかりな催しを展開した。
ハプニングは60年代という破壊的・行動的な時代の産物であり,肉体信仰のロマンティシズムと管理社会への反抗精神に色濃く彩られていた。60年代末の大学闘争をきっかけとした〈異議申立て〉の世界的運動の中に,ハプニングは増幅拡大されて受け継がれ,消えていった。
80年代に使われはじめた〈パフォーマンス〉は,ハプニングと比べると,もっと醒(さ)めた,繰り返しうる淡々とした日常性に主眼がおかれ,L.アンダーソンに見られるように,ハイ・テクノロジーとエンターテイメントの要素が強調されているのが特色である。
→パフォーマンス
執筆者:東野 芳明出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典
なるほど、勉強になった。
一応、勉強のため、あまり本を増やしたくはないんだが、「勉強のため」に、本屋で、『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を買ってみた。少し読んでみた。正直な感想。そこまでか?出版当時(1967年)では〈価値観の転覆〉というのがもっとリアリティをもったんだろうが、それから57年を経た今日現在の日本には、もはや転覆する価値観もリアリティも残されていないような気配である。むしろ、今は、価値観の樹立やリアリティの復権のほうが求められているのではないか、と、保守っぽいことを言ってみたくなった。
とりあえず、明日までに、一読しておこう。あと、同名の映画もブルーレイで出てるみたいなので、ツタヤから借りておこう。