Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

正直にしか生きられない

 本当にやりたいことが何なのか、正直にいって、よく分からない。こんな青臭いことを考えること自体の馬鹿らしさもある。そんなことはどうでもいいから、なんでもいいから今の仕事を精一杯やって、生きていればいい、という考え方も(それは主に母親のそれだが)納得できない。私は、私の生活に納得したいと思う。本当に学校現場に戻りたいのか。そこがどういうところなのか知っているのか。本当に学級担任をやりたいのか。子供を預かる責任に耐えられるのか。耐えられそうにないのではないか。

 私は本当に自信を失ってしまったんだなと思う。昔は、自信はないが勢いがあった。今はその勢いすらない。自信がなく、ただ立ち止まっているだけだ。

 私は、安心して生活が送りたいと思っている。心身の健康を取り戻したいと思っている。少しずつでもいいから貯金したいと思う。筋トレを続けたいと思う。自炊を続けたいと思う。自己管理能力を身につけたいと思う。英語教育に携わりたいと思う。英語力も高めたいと思う。フランス語やドイツ語やロシア語も学びたいと思う。やはり、ラテン語も知らねばならないと思う。人文学の教養を身につけたいと思う。恋人が欲しいと思う。友人が欲しいと思う。何かしらサークルに入りたいと思う。

 そうだ、私は何もかも諦めているどころか、生に執着しようとしている。欲望はある。ただ、自信がなく、責任を回避しようとしているだけだ。担任はきついとか、授業に自信がないとか、保護者対応が怖いとか。それならば、学校教育ではない、教育の現場に行けばいいではないか。塾、予備校、大学、専門学校、学習センター。いくらでもあるではないか。

 私は、私のやり方で、英語を教えたいと思う。それならいっそ独立して、英語塾を立ち上げるのがいいのか。私にそんな経営能力があるのか。

 なんなら自信があるのか。何も自信がない。だが、それは、今の始まったことではない。昔から自信はないし、今も、そしてこれからも自信はないんだろう。

 そういう自分を認めるしかないのではないか。何事も不安な自分。不安とは、むしろ、私の人生の感情かもしれない。ぼんやりとした不安、と、芥川龍之介は言って死んだそうである。安心を求める心は不安である。覚悟を求める心も、また、自信のなさである。友人のKや会社の上司のKは典型的な自信家であり、なんでも挑戦し、また成功しているように見える。ただ、そうなりたいのかと言えば、案外そうでもない。自分がそうなれるとも思えない。自分には自分に合った生き方や性格があるはずだと、どこかで居直っているようにも思う。

 不安は仕方ない。不安や自信のなさは、自分の感情の根本である。孤独といってもいい。不安だからいけないのではないのだ。むしろ、不安があるから、これまで生き延びてきたとさえ、逆説的にいうこともできるかもしれない。不安とは本能である。孤独を恐れるのも本能である。本能を否定しても、肯定しても、仕方のないことである。

 で、どうするのか。今の私は、担任をすることはできないだろう。英語を教えるだけならできそうだ。だから、非常勤講師、時間講師を考えているのだ。それでいいではないか。よく観察し、自学自習する一年にしたい。忙しい一年にしたくない。心身の健康を第一に考えたいからだ。飛び込んでいこうという勇気を出せと言う方がおかしいと思う。それは自分に合っていない。母と考え方が違うのだから、それをどうこう言っても仕方ない。

 私は自分の生き方に合った生き方を選びたいと思うだけである。そこに正直になろうと思うだけである。私は父や母の意見を聞くが、それに従順になれるとも思えない。私は、案外、頑固なんだろうと思う。曲げられない人間である。曲げると体調がおかしくなる。生理的に曲げられない人間である。それを忍耐することが全然できない。

 素直に、正直に生きたいと思う。