Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

Day 4/遅刻について

 今日はダイエット生活4日目である。昨日の夜、パスタ二人前をドカ食いしてしまった。二日連続である。予想していたことではあるが、少し自己嫌悪。更に、退職日だというのに遅刻して、お客様から「指導」される始末。自己嫌悪は重なる。遅刻については後で語る。今日の食事は、深夜3時にドカ食いしたペペロンチーノ風パスタ二人前と、仕事後のお別れ会で食べたピザ6切れ、ノンカロリーサイダー2缶、少しお菓子。合計1500キロカロリー程度か。自転車で行ったので、消費カロリーは200キロカロリーほどなので、1000キロカロリー余分に取ったことになる。一昨日の分も合わせれば、明日は絶対何も食べないことと、3時間は運動して、1000キロカロリーは消費したいところ。あと、風呂上りに体重を計ったら、105.5キロだった。なぜか体重は減っている。気を緩めず、明日こそ断食を達成したい。

 

 4月から新しい職場になる。都内の中学校の英語教師になるのだ。不安と期待の半々である。授業準備と生徒指導と部活指導に追われる日々だろう。朝5時半起き、6時半出発、7時半到着、始業、終業は恐らく6時か7時頃だろう。帰宅は8時過ぎになるだろうから、帰ったら、最低限の家事をやって寝るだけだろう。教員採用試験の勉強は、あくまで「暇潰し」と考える。今年の教員採用試験は、再来年度(2026年度)採用の試験である。まだ、教師として長く働くかどうか覚悟は定まっていない。来年度は、まず健康第一、趣味第二、仕事第三くらいに考えて働きたいと思っている。

 

 趣味について少し考える。平日の休み時間や休日をどう過ごすのかを予め考えておきたい。年間100日休日がある。仮にその半分(土曜日)の午前中を部活指導などに費やすにしても、午後は丸々残っている。実質75日間はある訳だ。平日なかなか行けない美容院や通院に毎月1回時間を費やすが、それは微々たるものだ。家にずっといるのは勿体ない。お出かけをしたい。早く痩せてカッコよくなったら、服屋巡りをしたいと思う。もう本を買わなくてもいいと思う。一生分の本は買った。元々ファッションに興味があるのだが、今の体型では、どんな服も入らない。それが一番ストレスである。映画にも行きたい。美術館や博物館めぐりもしたい。アウトドア系の趣味、釣りやキャンプもしたいと思う。物を書くことが好きになったので、このブログも継続したいし、もっと作品として残るようなもの、エッセイや現代詩、小説、文芸批評のようなものもやってみたい。何より、私は翻訳が好きである。翻訳の修行もしたい。英語の勉強は一生やりたいし、10年に一つの外国語をマスターするという計画も進行中である。いつか大学院でちゃんと研究したいと思っているから、まずは、高校レベルの社会科目(日本史、世界史、地理、倫理、政治経済)を自習で進めたい。やりたいことはいくらでもある。

 

 遅刻について。今日遅刻してしまったのである。13時に面談だというのに、起きたのが12時45分だった。どれだけ急いでも家から職場まで自転車で10分はかかる。職場に到着したのが13時3分。しかも運の悪いことに、面談に来たのは父親の方だった。経験上、父親が面談に来る場合は「面倒臭い」ことが多い。生徒は元塾生で、保護者が「クレクレ」系(「あれしてくれ、これしてくれ」とサービスを求める消費者の類型。私は略してそう呼んでいる)であることは分かっていた。それにも関わらず遅刻したというのは、我ながら呆れる。父親は「遅刻するならなぜ事前に連絡をしなかったのか」「電話が通じないから本部に電話した」「前はこんなことはなかった」(これは、3年前に通塾していた頃の自分の対応のことを指していると思われる。確かに3年前の自分は、働き始めだったので、もっと緊張感を持っていたから、正しい指摘である)と、御立腹である。

 

 と、一旦ここで中断する。常々思うが、正論というものは他人に響かないものである。いわゆる「正論おじさん」は、自分が正義の立場にあることを前提に、相手に正論をぶつける。或いは、正論を振りかざし、正論で人を断罪する。私が躊躇する理由は、果たして、正論だろうが極論だろうが、人が人を裁くことなどできないからである。「裁く者は裁かれる」(正式には「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」マタイによる福音書7章1節)。

 

 ということは、私も、こんなところで鬱憤を晴らしている場合ではない。そもそも私が悪い。客商売において、約束の時間に遅刻するなど言語道断である。私が悪うございました。どうかご勘弁願います。

 

 話を戻す。そんな最悪な雰囲気で面談は始まったのだが、生徒の学校での様子や志望校の話を聞いたりしながら、都度都度、生徒の成績や、塾に通っていた時のことを褒めたりしていると、父親の表情がほころぶ瞬間があった。その一瞬を逃さず、なんとか契約までこぎつけることができた。面談は1時間弱で終わったが、私は終始笑顔を絶やすことはなかった。

 

 遅刻しておいて自慢することも馬鹿らしいが、それでも尚、自画自賛したいのは自分の肝の太さ、大胆さである。3年前、教室長になりたての頃は、イレギュラーなことがあれば、明らかに狼狽えてしまって、それが顔に出て、体の反応に出た。心臓がバクバクしたり、発汗したり、喉が渇いたり、指先が震えたり、目線が合わなくなったり。今日、そういうことは一切なかった。それを成長と呼ぶのは適切ではないだろう。また、今日が最終日だったからというのも大きいだろう。物事に動じなくなった。遅刻しても謝ればいいと開き直っている。面談が終ったあと、悠々とした気持ちで、休憩所で煙草を吸いながら、「俺もなかなかやるじゃん」と思った。

 

 昔、プロ野球選手の松井秀喜の『不動心』という新書を読んだのを思い出す。何が書いてあったかほとんど忘れたが、一つエピソードとして覚えているのは、アメリカに渡って2年目か3年目に、松井さんは守備の際、大きな怪我を負ってしまったことがある。選手生命に関わる大怪我だった。メディアでも大きく取り上げられた。その時心に浮かんでいた言葉が「不動心」だったそうだ。松井さんの御母堂の信仰心とも何かしら関係しているのだろうが、とにかく「不動心」という言葉を思ったそうである。もう二度と昔のように自由にプレイすることは出来なくなるかもしれない。日本の「ゴジラ」として、メジャーでもホームラン王になるようなことは、もう諦めるべきだ等。あらゆる疑念や不安を否定するでもなく、肯定するでもない心の持ちようこそ「不動心」であるそうだ。

 

 今日、遅刻した後に、自分の心が一切動じなかったのは何故だったのか。今日が勤務最終日で、その親と会うのも最後だったからか。それは確実にあるだろう。だが、それとは別な心もあったように思う。まるで何もなかったように、かといって反省していない訳でもない。動作が淡々としていて、物腰が穏やかで、丁寧で、相手に媚びるような軽口も言える位落ち着いて、余裕がある感じ。まさに「不動心」であった。遅刻したことを忘れている訳ではない。遅刻したことに誠実に謝る。昔の自分は、そういう時に狼狽える方が寧ろ誠実であると思っていた。自分の感情を包み隠さないことが誠実さの現れであるとさえ思っていた節がある。今日は、しかし、違ったのだ。色々な偶然も重なって、たまたまできただけかもしれないが、自分にとっては大きなことだった。

 

 遅刻したときのイメージは、不動心である。遅刻に限らず、なにか「やらかした」時は、今日のイメージを心がけよう。不動心。決して焦らず、のんびりする訳でもなく、決して狼狽せず、落ち着きを取り戻すこと。或いは、一期一会ということを考えるのもいいかもしれない。今日でこの人に会うのは最初で最後かもしれないと思えば、飛ぶ鳥跡を濁さずの精神が自然と生まれる。

 

 学びの多い日であった。