Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

真に人を賢くするもの

 読書は人を賢くしない。その時の「賢さ」とは、徳と同じ意味である。では言い換えよう。読書をしても良い人間になるとは限らない。否。私はもう偏差値を上げるとか、難関校に入学するとか、そういうことに全然興味がなくなってしまった。

 

 私の求める「賢さ」とは、要領の良さとも違う。世間知とも違う。人付き合いのうまさでもない。一体、この世に私の求める「賢さ」を体現しているような人は誰なんだろうか。

 

 「賢さ」とは、専門知識ではない。だから、専門人が「賢者」であるという訳ではない。知識人が「賢人」であることは、現代においては、稀である。

 

 私が生涯で出会った中で最も「賢い」人は誰か。否、賢さは、相対的なものではなく、絶対的なものだ。賢さとは総合的なものだ。ある一面だけ賢く、他の面ではそうではない、というようなものではない。こういう時に思い浮かぶのは、小学生から高校生までお世話になった、地元の塾の先生、O先生である。今、先生の紹介をしようとは思わない。少し疲れているから。ただ、O先生がクリスチャンだったことと、今自分がキリスト教や聖書に惹かれているのは、無関係でない。

 

 読書は人を賢くしない、というのは、要するに、読書と信仰心の問題なんだろうと思う。教化に役立たない読書は、本質的には無意味である。

 

 昔、何かの本で、外国では無宗教の人間は社会的に信用されないので、日本人は、嘘でもいいから「仏教徒」とでも言った方がいい、みたいな話を読んで知ったことがあるが、今、その気持ちがほんのり分かる様な気がする。無宗教の人間は信用ならないと、思うようになってきたからである。

 

 無宗教よりも、無神論の方がまだマシである。それが今のネット論壇に代表される無神論的な論調がもてはやされている理由なのではないか。無宗教で尚且つニヒリズムやエゴイズムを超克している人を見出だすのは極めて困難である。

 

 率直に言って、エゴイズムやニヒリズムに陥るくらいなら、信仰心を持った方がまだマシであるとさえ思う。そういう消極的な理由から、信仰というものを考えざるを得ないほうがずっとリアルだと思う。

 

 少なくとも、心理や道徳や倫理や宗教について考える機会を習慣的に設けることは大事である。

 

 教養主義。私は教養主義的な人間なのかもしれない。だが、教養は目的ではなく手段である。人生の目的や価値について考えることを抜きにした教養は、ただのディレッタンティズム、道楽である、と三木清は言っていた。

 

 人生について真剣に考えることを抜きにして、賢さは生まれない。誠実さが人を賢くするというのが、今日の結論である。