Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

定期的な「混沌」が日常の秩序を維持していることについて

 定期的に何かを書く方がいい。今普段書くことと言えば、家計簿と日記と教員採用試験用の勉強だけである。それはとても目的的な、道具的な作業である。私は、否、私たちは、哲学者の國分功一郎氏が言っていたが、目的がなければ生きていけないと思い込んでいる。それは幻想である。目的など幻想である。目的、目標、目当て、当面のこと────「当面のこと」という言葉に込められていることをよく考えてみれば、それはやはり、本質的には、本来性からの逃走ではないのか、「当面やるべきこと」には、いつも、本当に大切なことが含まれていない─────が自分達を縛りつけていることに、悦びさえ覚えているのではないか。故西村賢太は「自縄自縛の愉楽」というようなことを生前言っていた(それは氏の作家活動、藤澤清造の歿後弟子という生き方そのものを指していたような気がする)が、それは私たち大衆一般も指しているように思われる。私たちは、「当面の見通し」抜きには、1日たりとも正気を保つことができない。その根源的な弱さを、批評家は「頽廃」と目敏く(めざとく)見つけてきて名指して糾弾するのである。(批評家とは概して「目敏い人々」のことである。彼らはすぐに見つけてしまい、それを指摘し、それが一向に改善されないことを嘆き、勝手に絶望したり、勝手に悟りすましたりして、一喜一憂する。)
 何の話をしているのだろう。私は、生活をルーティンにしようとしている。朝夕のルーティンを決め、運動のメニューを組み、毎食の献立を立てている。今日着る服の組み合わせを考え、肌をケアしたり、歯を磨いたり、髪をセットしたりしている。今日の仕事の段取りを考え、1日のカロリーの収支を気にしたり、通帳の残高を確認しながら、食費を削って書籍を買ったりしている。「せせこましい」と一蹴することもできるが、これは、私自身の生活なのだ。これは、決してせせこましい話なのではない。己自身の生活を保守しようとすることは、何も恥じることはない。(それに胸を張る必要もないが)
 私は私の生活を生き、人生を全うする。だが、その内部に価値があるのかと言えば、それはそうでもない。それだけを煎じ詰めれば、エゴイズム(独善主義)やエゴティズム(自分の話ばかりする人)と選ぶところがなくなる。で、結局は、ニヒリズムの問題が置き去りになってしまう。
 ニヒリズムのことについて考えようと思い、書棚に西部邁『虚無の構造』(中公文庫)を探す。見つからない。多分、実家の本棚にある。仕方ない。明日取りに行く。代わりに今のアパートの書棚で要らない本を実家に持って行こう。
 ニヒリズム。だが、最近はそんなに深刻にならなくなった。自分という人間の底が知れたというような感覚があるのだ。私は、断じて、自分の死ぬことに恐怖するような人間ではないし、善悪の問題に挫折して、二進も三進もいかなくなるような人間でもない。何かを情熱的に恋焦がれるがために、身を滅ぼすような人間でもなければ、芸術の道に死のうとする人間でもない。私は、読書によって相当に影響を受けたけれども、ふと我に帰って、作家と自分を比べてみて、自分が彼らのようにならなければならないという義理も道理もないことを思い知るのである。せめて私が読者の一人としてできる最大限の敬意は、「敬して遠ざける」であり、それには、内心、あかんべえをしているくらいで丁度いいのだと思う。
 私は本より映画の方が好きだし、映画より音楽の方が好きだ。音楽は「人生を変える」ような大仰なものではないからだ。音楽と生活は地続きだ。映画もそう。いや、多分、読書もそんなものであるべきだ。ただ、文字にはどうしても何か力を感じてしまう。読書は危険である。音楽と映画は安全である。映画を観て人生が変わった、なんて、多分、嘘だ。そういう感動的な物語を自分の人生に与えたいという欲望を、もっと正直に認めた方が良い。
 では、私の人生は、何によって変わるんだろうか。私は、まだ、自分の生活を保守したいと思っていて、何かを変革したいとは思っていない。むしろ、他者によって掻き回されたくないと思っている。芸術や哲学は、「敬して遠ざける」方が、今は無難である。臆病?そうである。私は今臆病なんだと思う。
 自分の生活。自分の健康。自分の貯金。自分の心と体。自分の仕事。自分の家。自分の習慣。そういうものばかりに注意が払われている。今、「ルーティン」が自分の中で流行している。生活のあらゆる機会を想定して、全てをルーティン化しようと考えている。ただ理想を語るのでは仕方ないが、現実を直視するのは耐えられない。理想と現実を橋渡しするもの、その一本の綱が「ルーティン」である。
 ルーティンとは、日課のことであり、習慣のことである。「生活改善」とは、一人暮らしの独身者にとっては、永遠運動である。自己をいかに制御するか、解放するかを日々実験しているようなものだ。面白いことが見えてくる時がある。秩序を維持するためには、定期的な「破壊」「混沌」が必要である、とか。
 そろそろ日常に戻ろう。また今度。