Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

400日後の未来より、40日後の支払いの方が頭を悩ませる

 なんとなく、書きたい気持ちである。何を書こうか考えながらタイピングをしている。何かについて心が引っかかっている。今何を求めているんだろうか。

 辞書を読む必要があると感じる。自分の気持ちを上手く表現できないのは、ひとえに語彙不足故である。色々と辞典や事典を買い揃えているにも関わらず、全然有効活用できていない現実がある。買っただけで満足してしまうのだ。私は、もっと貪欲にならないといけない。

 時間が無いという。そんなことはない。時間など作ろうと思えばいくらでも作れる。要は気合いが足りないのだ。それだけだ。

 眠れない。ZAZEN BOYSの新作を聴いた。過去のアルバムも少し聴いた。Tortoiseの『Millions Now Living Will Never Die』(1996)を流している。ポスト・ロックの名盤らしい。

 教員採用試験が近づいている。第一次選考まであと144日間、第二次選考まで185日間である。もう全然ないではないか。そうか、だから焦ってきているのか。こんなところで油を売っている暇はない。144日間などあっという間である。平日は毎日5時間、休日は8時間から10時間程度は勉強に費やさないと絶対に間に合わない。

 書きたい気持ちとは、まさに、焦りであった。間に合わないんじゃないかという不安。だが、それ以上に、本当に教師に戻りたいのかどうか、自分の気持ちがよく分からない不安の方が強い。

 果たして、自分は本当に東京で高校の英語教師をやりたいと思っているのだろうか。それよりも、今の仕事を辞めたいと思っているだけではないか。事実、教師を志すよりも、いつになったらこの仕事を辞められるのかばかり考えている。来年度は、一応、非常勤講師をやろうと思っている。思っているが、果たして、正教諭になろうとはまだ思っていない。否、判断するための情報が少なすぎる。では、情報を集めれば、不安は減るだろうか。情報過多は、むしろ、不安を増幅させるだけだ。この不安とは、情報不足というよりも、自分の信念の在処が分からないことに起因する。

 では問い方を変えよう。なぜ私は教師になる自信がないのか。教員養成系の大学に行き、アメリカに単身留学し、英語の力を身につけるため大学院にまで行って専修免許を取得し、更に、学習塾で6年近く指導してきた実績があるというのにだ。自分で書いていて情けなくなってくる。実績は自信にならない、という心理的事実に行き着いてしまう!

 私は成功を偶然と捉え、失敗を必然と捉える人間である。それによって、むしろ多くの「成功」を積んだはずであった。だが、私は、一度ならず、二度、三度、手痛い失敗を重ねてしまった。修士論文を二度出せなかったことと、愛知での正教諭は九ヶ月間で終わってしまったこと。この三度の失敗によって、私の自尊心や自己肯定感、自己有用感は、完全に失墜してしまった。また、この三年間、都内で個別指導塾で教室長を務めたが、初年度の成功は確かに素晴らしいものだったと自負しているが、次年度、そして今年度は、営業利益の面から言っても、合格実績から言っても、また自分の体調面や家計のバランスから言っても、到底、手放しで喜べるようなものではなかった。事実、今年度は、2ヶ月間の休職(教員時代の二度の休職を合わせて三度目)した。私は、社会人になってからというもの、どうも失敗続きなのだ。自信が持てなく当然と言えば当然である。

 2017年度から私の社会人は始まった。27歳になってからだから、相当遅い。今年34歳になるから、社会人8年目、ただ、その内の三年間は療養生活だったので、実質は4年目である。何かギクシャクしている。自分でも訳が分からなくなる。一体どうしてこんなことになったのか。18歳の自分が想像していた33歳を迎えていない。それは確かである。

 分からない。どうしたいのか、全然分からない。教員をしたいのか、したくないのか。このまま東京で暮らしていきたいのか、いきたくないのか。独り身のまま生きていきたいのか、そうではないのか。

 ハッキリと分かることだけを述べよう。以下箇条書きにする。

  • 私は健康になりたい
  • 私は正社員の立場を守りたい。もう非正規雇用で働きたくない
  • 私は自分の生活を保守したい
  • 私は英語教育に携わりたい
  • 私は英語学と教育学を一から勉強しなおしたい
  • 私は痩せたい
  • 私は貯金したい
  • 私は何かの趣味サークルに所属したい
  • 私は痩せて、好きな服や靴を買いたい。本当はお洒落が好きだから。
  • 私は趣味のドラムを再開したい
  • 私は将来、自分の家を買いたい
  • 私は将来、地方の郊外に住んで、畑を耕しながら、晴耕雨読な生活をしたい。
  • 私は英米文学の研究も継続したい
  • 私は英日翻訳をしたい
  • 私は英語を極めたい
  • 私は外国語を10年につき1つ(ある程度)マスターしたい(その言語で書かれた新聞や雑誌が読める程度)

 自分の欲望の形が分かってきた。今挙げたものの中に、「東京都の英語の教師になる」という項目はない。それが本音である。そこに嘘をついてはいけない。また、自分に嘘をつくことはできない。

 ただ、非常勤講師か時間講師を経験することで、東京都の正教諭がどのようであるのかをある程度推し量ることはできるかもしれない。それを期待している。

 だから、もしかしたら、来年度、教員採用試験を受けるのは時期尚早なのかもしれない。

 非常勤講師をやってみて、できそうだったら、再来年度の教員採用試験を受ける。できなさそうだったら、諦める。

 諦めた先に、何が見つかるのか。それは分からない。

 否。やはり、来年度の教員採用試験は受けよう。完全に準備ができた状態で何かを始めるなんて不可能だ。残りの144日間をフルに活用して、なんとか合格するしかない。合格しないと、選択する立場にも立てないではないか。非常勤講師を何年も続ける精神力は、私は持っていないと思う。

 もう、非正規雇用は懲り懲りである。あんなに健康に悪いものはない。

 もし、東京都の英語教師ができなかったら、その時はもう35歳を超えているだろうから、転職や再就職は厳しいだろう。自営業は尚更不安である。そうなれば、もう諦めて、英語教師を続けるしかないだろう。もう、これが最後のチャンスかもしれない。
 
 否、そうやって自分を追い詰めるのはやめようと決めたではないか。公立で英語教師ができなかったら、その時は、私立に行くか、東京ではない別の土地に移って、塾の講師でもやるか、やりようはいくらでもあるだろう。
 
 とにかく、自分で自分を追い詰めないこと。熱病(無茶、視野狭窄、焦燥感)を己から捨て去ること。冷静さを保つこと。それはある種の楽観主義を持つことである。なんとでもなる。また、なんとかなってきた。私の考える保守の思想とは、「なんとかなる/する」である。これまでも「なんとか」やってきたし、「なんとか」なってきた。だから、これからも「なんとか」なるだろう。どのようにするのかは、時と所と立場で変わってくる。だから「なんとか」としか形容することはできない。私のモットーは、「逃げない、負けない、誤魔化さない」である。その信念だけを曲げなければ本望である。

 来年度の教員採用試験を受けないのは、「逃げる」に当たるだろうか、と考えてみる。否、寧ろ、覚悟が固まっていないのに安易に受けることの方が「ごまかし」ではないだろうか。では、どうすれば、私は、教員採用試験を受ける「覚悟を決める」ことができるのだろうか。

 そんなことは自分では不可能である。諦める。覚悟を決めることなんて、今の自分にはできない。それは高望みである。これは「逃げ」だろうか。自分の人生を切り拓いていく意思がない。意志薄弱だろうか。素直に自分の心に尋ねてみよう。

 今の私が本当に求めているもの。安全。安心。健康。健全さ。豊かさ。習慣の形成。習慣の改善。自己改善運動。勉強。特に社会科(日本史、世界史、政治経済、倫理、地理)の学習は、人文学の基礎知識になる。英語と日本語(現代国語、古文、漢文)の学習。ダイエットと食事、睡眠、運動。自分の生活を保守し、習慣を改善し、体調を整え、元気になること。私が真に求めているのは、心身の健康と、生活の安定である。

 今書いたことを忘れないようにしよう。そうすれば、「覚悟を決める」なんて空語に誑かされることもない。覚悟なんて、今はどうでもいい。それよりも、自分の生活が送れるかどうかが問題である。

 今の仕事は今年度限りである。来年度の就職先が決まっていない。非常勤講師の登録を最近やったので、まだ処理中なのである。不安は仕方ない。

 分かった!なぜ来年度の教員採用試験の勉強に本腰が入らないのか。それは、来年度の教員採用試験が、再来年採用の試験だからだ。今の私は、再来年度のことなど考えられない状態なのだ。来月の支払いができるかどうかも怪しいのに、再来年度のことなどどうしてリアルに考えられるだろうか。リアリティがないから体が動かないのだ。
 
 今、考えるべきは、来年度のことだけだ。というか、再来月の話だ。たかだか45日後の話だ。400日後の心配よりも、40日後の心配の方が重大である。それは当たり前と言えば当たり前である。体の方が、リアルな不安を的確にキャッチしているということだろう。
 
 40日後の未来について考えること。今するべきことはそれだけだ。