Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

ふと、人生について

 私は、現在33歳である。33歳。33年間も生きてきた。私は中学一年生の頃に英語の勉強が好きになった。現在まで20年間、英語学習を継続していることになる。同時期に音楽が好きになり、以来、音楽を聴かない日はなかったので、音楽歴も20年である。英語を勉強し続け、音楽を聴き続けた。映画も、恐らく、300本位は観たんだろうと思う。1000本は観ていない。私は大学院に進学した25歳の辺りから、徐々に精神的に病むようになり、以来、読書が病みつきになった。否、正直に言えば、本を買い集めることが病みつきになった。冊数で言えば、毎月10冊や20冊、時に全集を買ったり、中古本をまとめて買っていたから、8年間で1500冊から2000冊程は買っていると思う。その内ちゃんと読了したのは全体の15%から20%程度である。となれば、結局読んだ冊数は220冊から400冊程度である。理解しているかどうかも不明であるし、経験になった読書は、全体の10%程度であろう。となれば、結局、20冊や40冊程度しか読んでいないのかもしれない。そんなことを言い出したらキリがないが、人生の中でも、本当に「生きた」瞬間など、全体の5%未満であろう。じゃあ、残りの95%は無駄だったのか。
 今日、ふと、15歳の頃に使っていた英語の教材を開いてみて驚いたのは、当時と今と、大して語彙量も増えていないという事実である。英検で言えば、準1級にはまだ手が届かないレベル、(つまらない指標であることを承知で言うが)大学偏差値で言えば、55〜60程度で、MARCHには届かないくらいだろう。英語の力が最も高かったのは、留学から帰ってきた23歳の頃で、それから10年間、リスニング力もスピーキング力も低下する一方である。
 では、社会人になって、色々と社会人的なスキルが身についたのかといえば、正直に言って、惰性で過ごしてきたとしか言いようがない。タスク管理が上手くいった試しがなく、学習塾の一番の要である季節講習の売り上げも年々落ちる一方である。社会人としてのマナーや常識やスキルが身についた自覚もない。
 生きるとはなんなんだろうかと、今日、ふと思ってしまった。こんなことでいいのだろうか。成長もしない、成熟もしない、ただ、日々が過ぎ去っていく。
 変わろうと思う。変えようと思う。ただ、どうすればいいのかは不明である。私は、一時期、宗教や哲学や思想によって自分を染めようと試みた。だが、その時、キリスト教にするか仏教にするか、実存哲学にするのか、保守思想にするのか、あるいは無頼派を気取るのか、色々と本も読もうとした。だが、最近は、そういうことからも離れるようになった。選ぼうとする自分に嫌気が差したこともある。結局それは、相対主義ではないか。結局それは、ニヒリズムではないか、エゴイズムではないか。じゃあ、ニーチェを読めば事足りるのか、哲学を原書で読めば根本的に解決するのかといえば、そんなことはないのであろうとも分かっていた。つまり、何かを読んだり、研究したりすることと、生き方を決めようとすることの間には、千里の距離があるのだ。生き方を決めることと読書の間には無限の距離がある。それは、論文を書くことと、論文の書き方を知ることの間の距離と同じであり、生きることと人生論を読むことの間の距離と同じであり、恋愛することと恋愛小説を読むことの間の距離と同じである。理論と実践、理想と現実、可能性と必然性。今日現在の私の興味関心は、いかにして二つの間を渡り切るのかということだけである。
 33歳の今の自分にとって、生きるとは老いることである。体の老いをリアルに感じる。18歳から15年経て一番変わったのは体型である。なんと40kgも体重が増加したのである。40kgの脂肪を身につけてしまったのである!1キロの脂肪を燃焼するのに7200キロカロリー必要とされているから、約30万キロカロリーの燃焼が必要である。40kg。今私がまず手放すべきは、全身に纏っている脂肪である。
 毎週1キロ、毎月3〜4kg、コンスタントに減量していき、2024年12月31日までに70kgになること。
 色々頑張ろうと思う。