Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

「ストレス」と「苦悩」/苦しみの「政治」と「文学」

 少し弱気になっている。来年度から仕事がどうなるんだろうか、不安で仕方ない。

 最近読んだ本に、「不安になったら100メートルダッシュしろ」というのがあった。どういうことかと言えば、不安や恐怖の心理状態を脳科学的に説明すると、ノルアドレナリンという脳内物質が放出されている状態であるそう。で、ノルアドレナリンという化学物質は、分かりやすく言えば「闘争か、あるいは逃走か」という信号を発しているとのことで、何か危機に直面した時に、それに真っ向勝負でぶつかっていくのか、あるいは退散するのかの二択を選べと脳に命じているそうだ。どちらを選ぶにせよ、何か行動しなければ、不安は解消されない。ここでいう「行動」とは三つで、「話す」か「書く」か「体を動かす」である。だから、「 不安になったら100メートルダッシュせよ」とは、不安を解消する(減じる)ための一番手っ取り早い方法である、ということらしい。

 「100メートル走ったからと言って問題は何も解決しない」とすぐ反論が出てくるだろう。一面確かにその通りなんだが、その本『ストレスフリー超大全』(ダイヤモンド社)の著者、樺沢紫苑さんが言っていたことは、不安というものを頭の中だけでぐるぐる回しても仕方ない、現実に行動して、試行錯誤して、フィードバックを貰って、他人と協働しながら解決する方が早いし楽であるということで、無論、あらゆる悩みが解決するはずもないが、99パーセントまでは解決するし、少なくとも、苦しみや痛みを減じることはできる、という大変プラグマティックな思想なのである。これは、言うなれば、悩みの「政治学である。人間とは、案外ロマン主義的にできているので、自分の悩みに自己に特有の個性があると思いがちである。私の問題は、私だけが理解できて、その解決策も私が自分で編み出したものでないと納得できない、というような。それは、大きな間違いであると、樺沢氏は語っているのだろうと思う。人間の悩みを、「政治的」なものと「実存的」なものに区分して、前者については、既にある有効な対処策(どれも常識の範囲で理解でき、少しの勇気と自信があれば実行可能なものばかり)を知って実行するだけで、概ね解決するとしている。で、私は、その考え方にほとんど同意してしまったのである。

 人間の悩みに固有なものなど、ほとんどない。これは、「個性」をどう理解するのかにかかっている。小林秀雄が個性について学生相手に講演したものを聞いたことがあるが、そこで小林は、「個性とは克服しなければならないものばかり」であると主張する。また、一般世間で言うところの個性尊重は、実は「スペシャリティ」(=特徴、特色)のことであって、鼻の形や目の色のようなものを自慢するのが馬鹿げているのと同じである、と批判した上で、画家のゴッホを引き合いに出し、ゴッホは病気(てんかん)を患っており、その病態は極めて「個性的」であったこと、だがゴッホは自分の病気(=個性)を自慢するようなことは決してしなかった、むしろそれを克服しようと懸命に戦い続け、最期発狂して自殺するに至ったのだとした。ここでいう「個性」とは、「宿命」や「運命」とほとんど同義である。

 真の個性とは、ゴッホにおけるてんかんがそうであったように、自己において最も他者的なもの、最も制御が効かないもの、こちらを超越しているものだ。そういう個性は、100メートル走ったからといって解決しない。他人に相談しても解決しない。それは政治的に解決できる問題ではないからだ。それは敢えて言えば「文学」の問題であり、信仰の問題であり、人文学的知性の扱う問題であろう。

 私が、『ストレスフリー超大全』を少し読んで感じたことは、「ストレス」と「苦悩」は異なるということだ。「ストレス」は政治的に解決するべきで、「苦悩」は解決するとかしないとかではない、別の次元で考えなければならないということである。で、今の自分の生活が直面している様々な課題を精査すると、かなりの部分、「政治的」な範疇に含まれるのではないか、それならば、解決の道も開けるのではないか、という希望である。と同時に、政治的に解決できない問題を浮き彫りにすることで、別のやり方を模索する機会にもなるのではないか、と思うのである。