Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

正気の保ち方

 今日、精神科の定期検診に行った。精神科に通ったことがある人ならお分かりになると思うが、実質は、2分くらい面談して、処方箋を出して、1分くらいで次回の診断日を決めるだけの、形式的、儀式的なものである。診断が終わった後、ふと口をついて出たのは、「馬鹿らしい」だった。

 こんなことをしていて病気が治る訳がない。いや、医者自身、私の病気を治そうとしていないではないか。色々病院経営の事情もあるんだろうが、毎月毎月、それを飲んだかどうかも確認されない薬の処方箋を出されて、一体誰のためになっているのだろうか。

 精神科医は、或いは薬局は、一体、誰のために働いているのか。私のために働いているようには思えない。病院経営のために働いているのか。そんな本末転倒なことがあるだろうか。

 システムだから仕方ない。私がどうこう言って変わるものでもない。世間を変えようとするよりも、自分自身を変えようとする方が早い。主体性を持って治療に取り組むようにしないと、いつまで経っても変わらない。処方された薬は飲もう。それは医者がそう命ずるからではない。自分のために飲むのだ。面倒な月一の儀式も参加しよう。それは病院経営の為ではなく、自分自身のためにそうする。やっていることは同じでも、気持ちの持ち方が違えば、結果は変わってくるものだ。

 

 今日気が付いたことは、主体性を持つことの大切さである。受け身では現実的に生きていけない。見知らぬ他人に頼ってはいけない。都会生活とは、まさに見知らぬ他人と共生することだが、ここでは頼るべきはなによりもまず自分自身であり、その次に自分の家族、自分をよく知る友人や恩人、その後に公的な機関である。待っていても何もやってこない。自己を確立しなければならない。強くならねばならない。

 

 だが、そのためには信仰心がなければならないと思う。主体性が大事とはいえ、それを突き詰めればただのエゴイズムであり、ナルシシズムであり、行き着く果てはニヒリズムに決まっているのだから。彼ら「忘恩の徒」にだけは死んでもなりたくないものだ。無宗教で「まとも」な神経を保ち続けるのが困難な理由は、一度信仰を失うと、恩義という感覚がなくなるからだろうと思う。無宗教無神論は似て非なるものだ。無神論の方が、無宗教よりもまだマシであるというくらいだが、平凡な人間が無神論になると、ただ孤独になるだけだ。私は、信仰心を持つことによって受ける偏見や差別よりも、信仰の拠り所がないことによる孤立無援の方を恐れる。

 

 聖書をはじめとした宗教の原典を読むことを生活に取り入れたい。或いは祈る時間を意図的に取り入れたい。「正気」を保つためには、世俗的な価値観を離れる必要がある。