Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

やる気について:それは結局、「バカ」だからではないのか

 やる気になれば何でも達成できる、というのは、恐らく誤解である。ただ、やる気にならなければ何も達成できない、というのは、恐らく当たっている。やる気の解明というのは、教師の研究するべきテーマの一つなんだろうが、経験的に分かっていることもあるので、少し挙げてみる。

 

  • 一人でやる気になることは難しい
  • やる気を削ぐことは、やる気にさせるよりも簡単である
  • やる気の半分は体調管理である
  • 自己管理も技術の一つであるのと同様に、やる気を出すのも技術である
  • 「受験は団体戦」という言葉があるように、やる気も集団的な心理である
  • やる気を出し過ぎるとパンクする
  • やる気とは有限である
  • 恐らくは、やる気とは、認知資源の使い方の一つを指している概念である
  • 何かを強制的にやらされていると思えば思うほど、学習効果は低くなる
  • 親や教師にやる気を出してもらうことを習慣にすると、自分でやる気が出せなくなり、自暴自棄になりやすい
  • やる気とは、意志力や自己肯定感よりも更に根源的な心理の基礎的条件である
  • やる気とは、恐らく、承認欲求である
  • やる気があるかないかは、他人が見てすぐに分かるようなものだ。
  • やる気は目に出る
  • 本当にやる気のある人間は、他人の評価や世間体を気にしない
  • やる気や気合いは「感染」する
  • やる気=動機は、心理学的であり、尚且つ、倫理学的な概念である
  • やる気を出すよりも何かを「やらないでおく」方が難しい

 

 色々と思いつくままに書いてみたものの、帰納法的に何事かを法則化することは難しいように思う。まさに「ケース・バイ・ケース」であって、意気投合した仲間とは自然とやる気が引き起こされるが、そうでない人とは無理矢理にも出さないとやっていけない、というような感じである。

 

 そうか、やる気とは、自己と他者の間に存在する空気のようなものなのだ。だから「感染」するわけだし、これはある種の恋愛論にも似ている。この人とは近づきたいと思えば、やる気なんて出さずとも勝手に出ているだろうし、顔も見たくない相手とは、どうしたってやる気など起きない。恐らく、「やる気」の議論の中心となるのは、どのようにして、(付き合いたくない)相手と共に、互いにやる気を出すか、或いは、さもやる気があるように振る舞うのか、という処世術の開発である。

 

 その線で行けば、やる気とは、恐らく、礼儀正しさやマナーと関係する。或いは、工事現場の5Sではないが「整理・整頓・清潔・清潔・躾」といった作業場の秩序や風土にもかかわるだろう。やる気が出ない時に掃除をしたくなる心理は、案外、理にかなっているのかもしれない。

 

 相手にやる気を出させるものは、恐らく、否、確実に、愛である。愛といって過剰なら、配慮であり、気遣いである。相手の心を動かすものは、魂の誠実さであって、それ以外は無い。これは観念論でも理想論でもなんでもなく、経験的に、現実的に言ってそうである。

 

 もし、誰かのやる気が出ないのならば、それはやはり、その人の魂が弱っているか、低い次元に留まっているからであり、案外、それ以外の原因は無いのかもしれない。要するにバカだからやる気が出ないのである。(この辺りの「バカ」の使い方については、千葉雅也氏の『勉強の哲学』における使用法に沿っている)バカで無知で弱虫で恩知らずで傲慢で根性無しで我慢が出来ないからこそ、「やる気」などに頼ろうとしているのではないか。やる気を出すも出さないも、ひとえに、人間の愚かさに起因するのだとしたら、こんなに簡単な解決策もないのである。つまり、愚かな人間を愛することができる存在だけが、愚かな人間に「やる気」や「勇気」や「希望」を与えることができる、と。

 

 やる気を自由自在に入れたり出したりできるのは、人間ではなく、機械であろう。ついタイトルに釣られて買ってしまった『やる気に頼らずに「すぐやる人」になる37のコツ』という本は、最初の数ページしか読んでいないし、ほとんど何も覚えていないが、印象としては、人間を「欲望する機械」(ドゥルーズ)のように把握したうえで、認知心理学の手法を用いながら、周囲の環境や道具を整備することによって、内発的動機づけに頼ることなく、問題解決に向かわせるよう、自分自身を誘導していくための実践的なヒントが詰まっている本であったように記憶している。

 

 一言。私たちが「やる気」がないとか、「やる気」が出ないとか、誰かに「やる気」を削がれただ、或いは、誰かに「やる気」を与えられた、はたまた、「やる気」になったからご褒美をくれ、だの言いだすのは、滑稽である。滑稽さを笑い、己のバカさ加減を笑い、自分に正直になることだ。そうすれば、また世界は違ったように見えてくるかもしれない。「やる気」なんて空語である。概念である。やる気ではない「別の何か」も見つかるかもしれない。