Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

女遊びの才能

 ふと、昔の出来事が頭を過ぎる。アメリカの友人が日本に来た時、彼がしきりに私を新宿歌舞伎町に連れていこうとして、嫌がる私をよそに連れて行かれたこと。あまり良い思い出ではない。あの時どうやって断ればよかったのか、そんなことを思い出していた。そのアメリカの友人は、当時既婚者であって、私はその奥さんのことも全く知らない間柄ではなかった。「君、奥さんのことも考えてやれよ」と言えばよかったのだろうか。その友人、まあ、Sとさせて欲しいが、Sは、酒が入ると酷く絡んで、しつこくなるタイプであって、その日の夜、彼はしこたま飲んでいた。背丈は180cmを超え、体重はきっと120キロ近くあっただろう。縦にも横にも膨張したその巨漢のアメリカ人と、私も身長180cmで、当時100キロ近くあったから、周りが見たら驚く、巨漢の男二人だったに違いない。私はといえば、そういう界隈に行くのに慣れていないので、終始落ち着かず、結局ついていく羽目になった店は、キャバクラと覗き部屋が合わさったような曖昧宿で、全然楽しくなかった。二人で2万取られたと思う。

 私は、風俗に行く男の気持ちが分かるようで、分からない。その意味では、西村賢太の作品を読んで、腹の底から、骨身に染みて分かることはないのだろう。坂口安吾の作品にも、やたらに、遊女の話が出てくるが、やはり、分からない。女遊びの面白さが分からない。これも嫌な思い出の一つだが、高校の同級生が東京に引っ越して来たと聞いて、飲み会を開いた。高校時代、そんな女遊びが好きなようなタイプでもなかったその友人は、社会に出て色々と「勉強」した結果、そういうところが好きになったそうである。少なくとも「付き合い」程度に嗜んでいるそうである。で、私は、言われるがままに、秋葉原の小汚いキャバクラに連れて行かれ、ボックス席のようなところに案内された。で、三人ほどの女性とつまらない話をして、口寂しくなるとタバコに手を出して(こういう時タバコがあって本当に良かった)、なんとか場を繋いで、すぐに店を出た。

 私は、生来、女遊びに向いていないのだろうと思う。今後も、そういう界隈には近づかないだろうと思う。では、私は聖人君子の如き、ないし、修行僧のような欲を絶った人間なのかというと、全くそうではない。物欲と食欲と名誉欲に塗れた人間である。一体人間の欲は何種類あるのか、それを数えた人間がいるのか知らないが、現在の私において最も強い欲求は、恐らく、安定欲求であろう。己の生活のことばかり考えている。自分の心身の健康、転職先の給料、毎月の支払いのこと、自分の能力や技術のこと、自分の趣味のこと、自分の見た目!今の自分は、視界が1メートルくらいしかないんではないか。自分のことしか考えてない。つまらない人間になった、とも思う。と同時に、仕方ない、とも。今は、自分の体と心と生活を「保守」することから始めないことには、何も始まらないと居直っている。

 何の話だったっけ。女遊び。そう。私は、女遊びの才能がないのである。落語家がよく言う「呑む、打つ、買う」の、どの才能も自分に感じない。酒は体質的に飲めないし、博打は(麻雀は別だが)興味が沸かないし、女遊びは、興味がないというよりも恐ろしい。何か、冒涜している感じが拭えない。私は、倫理的な潔癖症なんだろう。別にそれが正しいとも思えない。ただ、後悔すると分かっていながら、それを選ぶようなことはしたくないだけである。

 つくづく、才能だと思う。女遊びの才能。博打も才能、飲むのも才能、仕事も才能だし、趣味だって才能だろう。人には限られた才能が与えられており、持っている才能を開花させるのが人生の醍醐味だと思うが、私には、偶然、女遊びの才能は与えられなかった。それだけの話である。自分の才能、才覚を、どう見極めるのか、それは、しかし、色々と失敗しないと分からない。ただ、何度も同じ失敗ができるほど人生は長くない。私はきっと、別のことに向いているのだから、法に触れないものなら何でも試してみて、自分の才能を発見したいと思う。