Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

生の倦怠と想定力

 今日は仕事が休みで、外も雨で寒いので、ジムに行くことにした。最近またジムにハマっている。ジムはいい。行くまでが少し勇気が要るが、行ってしまえば必ずいいことがある。行くまでの勇気とは、一言で言えば、「面倒くさい」をどうやっつけるかにかかっている。何が面倒なのか。まず、外に出るのが面倒である。スポーツウェアに着替え、ランニングシューズを履き、水を用意し、iPadの充電をしているか確認し、スマホとヘッドホンを用意し、それらをバックパックに詰めて、500メートル程歩く必要がある。ジムから帰れば、着替えを洗濯して、干して、乾かした後に、取り込んで、畳んで、箪笥にしまう必要がある。シャワーを浴びないと気持ち悪いので、余計に洗濯物が増える。風呂掃除もしないといけない。水道、電気・ガスの料金も上がっている。また、ジムのウォーキングマシンで歩いているときに視聴するコンテンツを選ばないといけない。今日試してみて分かったが、映画を観ながら歩くことは結構大変である。MV(Music Video)くらいがちょうど良い。自分の好きなコンテンツは主にヒップホップ/ラップであるが、それももう大半は観た。繰り返しばかりになって、かなり食傷気味である。となれば、新しいジャンルの音楽を見つける必要もある。それもまた「面倒臭い」のである。

 三島由紀夫が「生の倦怠」ということをどこかの記者会見でしきりに強調していたが、まさに、単身者の生活は「生の倦怠」との闘いである。これに負ければ、生活は活力を失い、肉体の免疫力も低下し、家計は回らなくなり、仕事も手につかなくなり、精神が荒廃する。これは、少し拡大して言えば、「ニヒリズム」との戦いなのである。都会で暮らす単身者の生活とは、ニヒリズムとどう戦い、生の充実や幸福を勝ち取るのか、というのが至上命題なのである。

 で、話をジムに戻すと、私は今日やけにテンションが高く、体がウズウズしていた。これは徐々に健康になってきた証である。本を読もうと思っても落ち着かない。ヘッドホンで爆音でフレデリックの『オドループ』を聴きながら、ジムまで早足で向かった。先にくどくど書いた、「面倒くさいこと」など全て忘れて、とにかく体を動かしたかった。ジムに着くと、上着と荷物をロッカーに入れ、スマホiPadとヘッドホンだけ持って、空いているウォーキングマシンに飛び乗った。何か映画を観ようと思って、『ダイハード』でも観ようかなと思って、観ていたが、なかなか体のウズウズが落ち着かない。やはり、映画を観ながら歩くことは相当難しい。集中できない。で、アップルミュージックにあるMVで、自分のお気に入りの曲を流しながら歩くというので落ち着いた。これも先に書いたことだが、今、自分は音楽に食傷気味である。自家中毒症に近い。私のプレイリストは好きなものに溢れているが、好きなものしかないというのは、かなり不健康な兆候である。新しい分野、ジャンル、年代を探求していかねば、このヒップホップ「沼」とでも言いたい、自家中毒症から抜け出ることができない。
 
 結局、1時間程度、ラップを聴きながら歩いていた。その後、少しだけ無酸素運動をして、家に帰った。シャワーを浴び、洗濯物を回して、干している。

 何事も、「想定力」が必要である。これは上司から学んだ一つの仕事術の根本的態度である。想定力、段取り、下準備、手順書の作成、そういうことを教わった。これはプライベートでも使える発想である。逆算の発想である。締切があるものに対して、今自分が何をすべきかを考える思考法である。

 一番自分に合っているのは、自分独自のマニュアル作り、手順書、企画書作りである。自分自身に対する約束である。

 今日は、睡眠導入剤を飲んだせいか、大変眠い。もう寝よう。

「ストレス」と「苦悩」/苦しみの「政治」と「文学」

 少し弱気になっている。来年度から仕事がどうなるんだろうか、不安で仕方ない。

 最近読んだ本に、「不安になったら100メートルダッシュしろ」というのがあった。どういうことかと言えば、不安や恐怖の心理状態を脳科学的に説明すると、ノルアドレナリンという脳内物質が放出されている状態であるそう。で、ノルアドレナリンという化学物質は、分かりやすく言えば「闘争か、あるいは逃走か」という信号を発しているとのことで、何か危機に直面した時に、それに真っ向勝負でぶつかっていくのか、あるいは退散するのかの二択を選べと脳に命じているそうだ。どちらを選ぶにせよ、何か行動しなければ、不安は解消されない。ここでいう「行動」とは三つで、「話す」か「書く」か「体を動かす」である。だから、「 不安になったら100メートルダッシュせよ」とは、不安を解消する(減じる)ための一番手っ取り早い方法である、ということらしい。

 「100メートル走ったからと言って問題は何も解決しない」とすぐ反論が出てくるだろう。一面確かにその通りなんだが、その本『ストレスフリー超大全』(ダイヤモンド社)の著者、樺沢紫苑さんが言っていたことは、不安というものを頭の中だけでぐるぐる回しても仕方ない、現実に行動して、試行錯誤して、フィードバックを貰って、他人と協働しながら解決する方が早いし楽であるということで、無論、あらゆる悩みが解決するはずもないが、99パーセントまでは解決するし、少なくとも、苦しみや痛みを減じることはできる、という大変プラグマティックな思想なのである。これは、言うなれば、悩みの「政治学である。人間とは、案外ロマン主義的にできているので、自分の悩みに自己に特有の個性があると思いがちである。私の問題は、私だけが理解できて、その解決策も私が自分で編み出したものでないと納得できない、というような。それは、大きな間違いであると、樺沢氏は語っているのだろうと思う。人間の悩みを、「政治的」なものと「実存的」なものに区分して、前者については、既にある有効な対処策(どれも常識の範囲で理解でき、少しの勇気と自信があれば実行可能なものばかり)を知って実行するだけで、概ね解決するとしている。で、私は、その考え方にほとんど同意してしまったのである。

 人間の悩みに固有なものなど、ほとんどない。これは、「個性」をどう理解するのかにかかっている。小林秀雄が個性について学生相手に講演したものを聞いたことがあるが、そこで小林は、「個性とは克服しなければならないものばかり」であると主張する。また、一般世間で言うところの個性尊重は、実は「スペシャリティ」(=特徴、特色)のことであって、鼻の形や目の色のようなものを自慢するのが馬鹿げているのと同じである、と批判した上で、画家のゴッホを引き合いに出し、ゴッホは病気(てんかん)を患っており、その病態は極めて「個性的」であったこと、だがゴッホは自分の病気(=個性)を自慢するようなことは決してしなかった、むしろそれを克服しようと懸命に戦い続け、最期発狂して自殺するに至ったのだとした。ここでいう「個性」とは、「宿命」や「運命」とほとんど同義である。

 真の個性とは、ゴッホにおけるてんかんがそうであったように、自己において最も他者的なもの、最も制御が効かないもの、こちらを超越しているものだ。そういう個性は、100メートル走ったからといって解決しない。他人に相談しても解決しない。それは政治的に解決できる問題ではないからだ。それは敢えて言えば「文学」の問題であり、信仰の問題であり、人文学的知性の扱う問題であろう。

 私が、『ストレスフリー超大全』を少し読んで感じたことは、「ストレス」と「苦悩」は異なるということだ。「ストレス」は政治的に解決するべきで、「苦悩」は解決するとかしないとかではない、別の次元で考えなければならないということである。で、今の自分の生活が直面している様々な課題を精査すると、かなりの部分、「政治的」な範疇に含まれるのではないか、それならば、解決の道も開けるのではないか、という希望である。と同時に、政治的に解決できない問題を浮き彫りにすることで、別のやり方を模索する機会にもなるのではないか、と思うのである。

読書のスタイルについて

 明日は天皇誕生日で休みだ。ウキウキする。こういう感覚は久しぶりだ。
 
 今日良いことがあった。昨年の11月からほとんどつきっきりで面倒を見ていた中学3年生の生徒が、都立高校入試が終わり、自己採点のために塾に来てくれた。採点の結果は、なんと、500点満点中431点!志望校の合格ラインを10点以上超えている!とても嬉しかった。やって良かったと思った瞬間だった。本人も満足そうだったし、電話でお母さんと話したら、お母さんも大変喜んでいた。あとは合格発表を待つのみである。

 そういうこともあって、今日の私はとても上機嫌である。中学3年生の子達が全員合格できるよう祈るばかり。

 特筆すべきことがある訳ではない。最近少し書き過ぎているような気もする。書くこと(タイプすること)は、それ自体心地よいので、別に書く材料がなくても、書くこと自体は困らない。今色々と勉強しようと思って、本を読んでいるのだが、同時に何冊も読んでいるので、頭に入っているのかよく分からない。今読んでいる本を挙げておく。(下にリンクも貼った)

北杜夫斎藤由香.『パパは楽しい躁うつ病』.朝日新聞出版.2009年.
鹿毛雅治.『モチベーションの心理学「やる気」と「意欲」のメカニズム』.中公新書.2022年.
・樺沢紫苑.『精神科医が教えるストレスフリー超大全』.ダイヤモンド社.2020年.

 最近始めたことは、本を読みながらメモを取ることだ。メモ用紙をノートやルーズリーフではなく、「プロジェクト ペーパー」(商品名、以下リンク)なる、A4サイズの方眼用紙に書いて、それをクリアファイルに保管していくスタイルにした。とてもいい感じ。今度から勉強は全部このスタイルでいこうかな。

 写真を載っけようかと思ったが、インスタグラムと連携しないといけないっぽくてやめた。インスタも最近全然やってないなあ。載せる写真がない。

 何となくの予想だが、今後、SNSは急速に下火になると思う。本当にどうでもいいこと以外、何も共有されない時代が来ると思う。これは既に10年以上前から識者(誰?)によって指摘されていることだが、インターネットは情報検索としての利用価値はほとんどない。精度がどんどん落ちている。無料で何でも手に入る時代は終わり、何でも有料サブスクになるのだろう。まあ、当たり前と言えば当たり前である。

 このブログを有料化する予定は今のところない。好きで書かせてもらっているだけだ。自分自身のために書いているから、誰一人読まなくても構わない。

 ブログとは、紙の日記で書くのとは違う趣がある。キーボードを叩く行為とペンを握って文字を書く違いも大きいように思う。ブログの方が、圧倒的なスピードで大量に駄文を書き続けることができる。キーボードの魔力であろうか。今この記事は、愛器であるiPad Airで書いているのだが、パソコンのキーボードと違い、少し打ちづらい。やはり、デスクトップのキーボードが一番打ちやすいと思う。

 ブログは半分匿名のような書き方をする。誰が読むか分からないから、読み返して恥ずかしくない文章にしないといけない。となれば、自然、話に色がつく。脚色され、編集され、フィクションとして語られる。もし、本名、顔出しで何かを書くとなれば、全然違った書き方になるだろう。

 取り敢えず、今日は寝よう。

我が身可愛さ

 なぜ教師を志すのか、なぜこの仕事を辞めるのか、なぜ東京都の中高の英語教員を志すのか、本当の気持ちを知りたいと思う。

 

 なぜこの仕事を辞めるのかについては、もう何度も考えたし、既に結論は出ている。給与面と健康面がその主であるが、本当の理由は、この仕事が向いていないからである。私は結局一度も季節講習の準備を「ちゃんと」することができなかった。本当にやりたい事ではないことに、無理矢理コミットしようとして、案の定、体調を崩した。もうそういうことはしたくない。

 

 前職で学んだことは何だろうかと思う。一体何を学んだのか。少なくと言えることは、嫌な事を無理矢理でもやり切る力は身についたのではないか。納得していないこと、割り切れないことを、納得しないままに、割り切らないままに、なんとかして持ち堪えて、休まずに仕事に行く。それは能力とか技術とかいうものではいかもしれない。責任感。私は、自分に一番欠けているものは責任感だと思って来た。だが、事実だけ振り返っても、私のこの三年間は、ほとんど仕事しかしていない。旅行は一度も行っていない。贅沢をしたとすれば、食べることくらいである。外食はそれほど多くなかったが、出前を使うようになった。コンビニ通いも止められなかった。体重はみるみる増加した。気分のアップダウンも激しくなったように思う。だが、それでも、仕事を途中で辞めることはしなかった。二ヶ月間休職をしてでも、また戻って、頑張った。私は、少なくとも言えることは、この三年間、とてもよく頑張った。修士論文もそう。出来上がった論文は、論文の態をなしているとも思えない、教授の手解きや支援がなければ受理されなかっただろう、酷い代物だ。二度と見返したくない、辛い思い出である。だが、あの時も、私は、そこから逃げずに、修士号を貰った。逃げ出さなかった。諦めなかった。教員を辞めた後、東京の実家に身を寄せた後も、すぐにアルバイトを見つけた。病院も自分で探した。本を沢山買って来て、自己理解に努めた。日曜日に介護の派遣労働をしたこともあった。事務所移転の派遣もやった。一番きつかったのは荷下ろしの派遣だった。あれは労災ものだった。それでも、私は、働くことを諦めなかったし、病気と闘うことを止めなかった。朝起きるのができなかったから、早朝のパチンコ清掃のアルバイトも半年ほどやった。あの時もきつかった。それでも、仕事は休まなかった。

 

 2017年の2月。修士論文が出せなかったあの日から、私は、人間が変ってしまった。それから7年が経過した。私は、この7年間、一生懸命頑張ったと思う。敢えて恐ろしいことを言えば、この7年間は、「死にたい」との戦いだった。死にたい自分とずっと向き合ってきた。そして、その戦いに勝ち続けていた。なぜなら死ななかったのだから。この苦労は、鬱病を体験した者でないと分からないと思う。分からなくていいものだ。

 

 鬱病にならなかったら、今頃、教員を7年目を迎えたのだろうか。こんな空想をしても仕方ないが、もし大学院に行かなかったら、社会人として10年目を迎える年になる。いや、もし留学に行かず、浪人もしなかったら、12年目だ。大学に行かずに高卒で働き始めたら、16年目のキャリアになるはずだ。私は、どう贔屓目に見たって、労働機会を失い続けている。これは認めざるを得ないのではないか。

 

 病気になって失ったものは色々ある。心身の健康。お金。見た目の自信。何をするのも億劫になったし、外に出たがらなくなった。その結果、新しく友人を作るのも、恋人を作るのも、自分には無理だと思うようになった。転職の勇気も出ない。他人に相談することもできない。山のように本を買っても、それを読む気力も継続しなかった。いつ死んでもいいと思って生きて来たし、今も、そう大して変わっていないと思う。この人生がこれからもずっと続くのかと思うと、嫌気が差す、瞬間がある。なんで東京に居るのか分からない。親やきょうだいのことを軽蔑していた時期も長い。

 

 7年。その長さ。誰彼に共感して欲しい訳ではない。ただ、嗚呼、7年!7年間の辛抱。7年間の孤独。7年間の闘病。それで何を得たのか。何を学んだのか。あまりにも生々し過ぎて、教訓なんて生易しい言葉では言い表すことができない。

 

 正直になろう。将来のことなど今はこれっぽっちも考えていない。考えられない。来月の支払いがどうなるか分からないのに、10年後、20年後の未来など、どうでもいい。自分の健康が第一である。今の仕事では食っていけない。肉体も精神もボロボロになるだけだ。教師の仕事が辛いのは承知の上だ。だが、少なくとも、売り上げが立たないからボーナスが減額されるようなことはないし、生徒数が上がらないから首が飛ぶ訳でもない。私は、今、心身の健康と自分の生活の安定だけを求めている。それ以外のことは頭にない。

 

 最初の疑問に戻る。なぜ教師を志すのか。それは教師という側面よりも、公務員だからである。公務員になりたいと思っているだけである。生活を安定させたいから、それだけである。本音を言えば、それだけだ。逆に言えば、それくらい、今、切羽詰まっている。

 

 いくらでも建前は言えるだろう。だが、本音の根っこは、我が身可愛さである。自分の本音を見失いたくないから、こんな露悪趣味とも自虐趣味とも受け取られかねない文章を公開している。

 

 こんな態度は、保守でもなんでもない。ただの保身である。全然立派ではない。ただ生き延びたいが為である。それは醜い。正しいとか間違っているとかの以前に、醜いと思う。この醜さをどう考えるのか。では、醜くない、自分でも納得できる生き方とは何なのか。

 

 3月末に今の仕事を辞める。それは絶対である。では4月からどうやって生きていくのか。一人暮らしといえど、毎月最低15万円はかかる。アルバイト生活をするのか。アルバイト生活が清貧な暮しなのか。そんな訳がない。じゃあ、お前がやってみろと言いたい。どれだけ不安か、精神的に追い詰められるか。私は28歳から30歳までの3年弱、アルバイト、フリーターだった。いい大人の男が、老いた両親の脛を齧りながら生きていくその恥ずかしさ、申し訳なさ、死にたさは、とうてい言葉で形容できるものではない。あんな経験はもう二度と御免である。それならいっそのこと、アルバイトの掛け持ちでも何でもいいから、独りで生きて、独りで死んだ方がマシである。生きていればなんでもいい、なんてのは、大嘘である。生殺しだ。

 

 結局、4月から正規の仕事をする必要がある。では、今の自分の経歴を踏まえて、出来そうな仕事、やれそうな仕事、折り合いを付けながら、上手く回せそうな仕事といえば、結局、教育現場しかない。学校しかない。それは塾ではない。私立学校は、半分塾みたいなものだから、結局公立の学校しかない。だから、今、4月から何処かで非常勤講師ができないか探している最中である。もし見つからなかったら、私立高校で雇ってもらうしかない。

 

 我が身可愛さ。今の自分の心理はそんなところだ。

 

    どれだけ醜くても、自分の本音に正直になること、それを率直に言葉に表すこと。そうすることで、なんとか正気を保っている。

女遊びの才能

 ふと、昔の出来事が頭を過ぎる。アメリカの友人が日本に来た時、彼がしきりに私を新宿歌舞伎町に連れていこうとして、嫌がる私をよそに連れて行かれたこと。あまり良い思い出ではない。あの時どうやって断ればよかったのか、そんなことを思い出していた。そのアメリカの友人は、当時既婚者であって、私はその奥さんのことも全く知らない間柄ではなかった。「君、奥さんのことも考えてやれよ」と言えばよかったのだろうか。その友人、まあ、Sとさせて欲しいが、Sは、酒が入ると酷く絡んで、しつこくなるタイプであって、その日の夜、彼はしこたま飲んでいた。背丈は180cmを超え、体重はきっと120キロ近くあっただろう。縦にも横にも膨張したその巨漢のアメリカ人と、私も身長180cmで、当時100キロ近くあったから、周りが見たら驚く、巨漢の男二人だったに違いない。私はといえば、そういう界隈に行くのに慣れていないので、終始落ち着かず、結局ついていく羽目になった店は、キャバクラと覗き部屋が合わさったような曖昧宿で、全然楽しくなかった。二人で2万取られたと思う。

 私は、風俗に行く男の気持ちが分かるようで、分からない。その意味では、西村賢太の作品を読んで、腹の底から、骨身に染みて分かることはないのだろう。坂口安吾の作品にも、やたらに、遊女の話が出てくるが、やはり、分からない。女遊びの面白さが分からない。これも嫌な思い出の一つだが、高校の同級生が東京に引っ越して来たと聞いて、飲み会を開いた。高校時代、そんな女遊びが好きなようなタイプでもなかったその友人は、社会に出て色々と「勉強」した結果、そういうところが好きになったそうである。少なくとも「付き合い」程度に嗜んでいるそうである。で、私は、言われるがままに、秋葉原の小汚いキャバクラに連れて行かれ、ボックス席のようなところに案内された。で、三人ほどの女性とつまらない話をして、口寂しくなるとタバコに手を出して(こういう時タバコがあって本当に良かった)、なんとか場を繋いで、すぐに店を出た。

 私は、生来、女遊びに向いていないのだろうと思う。今後も、そういう界隈には近づかないだろうと思う。では、私は聖人君子の如き、ないし、修行僧のような欲を絶った人間なのかというと、全くそうではない。物欲と食欲と名誉欲に塗れた人間である。一体人間の欲は何種類あるのか、それを数えた人間がいるのか知らないが、現在の私において最も強い欲求は、恐らく、安定欲求であろう。己の生活のことばかり考えている。自分の心身の健康、転職先の給料、毎月の支払いのこと、自分の能力や技術のこと、自分の趣味のこと、自分の見た目!今の自分は、視界が1メートルくらいしかないんではないか。自分のことしか考えてない。つまらない人間になった、とも思う。と同時に、仕方ない、とも。今は、自分の体と心と生活を「保守」することから始めないことには、何も始まらないと居直っている。

 何の話だったっけ。女遊び。そう。私は、女遊びの才能がないのである。落語家がよく言う「呑む、打つ、買う」の、どの才能も自分に感じない。酒は体質的に飲めないし、博打は(麻雀は別だが)興味が沸かないし、女遊びは、興味がないというよりも恐ろしい。何か、冒涜している感じが拭えない。私は、倫理的な潔癖症なんだろう。別にそれが正しいとも思えない。ただ、後悔すると分かっていながら、それを選ぶようなことはしたくないだけである。

 つくづく、才能だと思う。女遊びの才能。博打も才能、飲むのも才能、仕事も才能だし、趣味だって才能だろう。人には限られた才能が与えられており、持っている才能を開花させるのが人生の醍醐味だと思うが、私には、偶然、女遊びの才能は与えられなかった。それだけの話である。自分の才能、才覚を、どう見極めるのか、それは、しかし、色々と失敗しないと分からない。ただ、何度も同じ失敗ができるほど人生は長くない。私はきっと、別のことに向いているのだから、法に触れないものなら何でも試してみて、自分の才能を発見したいと思う。
 

ささやかな願い

 ほんの少しだけ鬱っぽい。きっと天気のせいだろう。ここ数日、東京は雨である。低気圧のせいだ。何か変わったことがあったわけでもない。

 

 百万遍繰り返したことだが、私は今年度限りで今の仕事を辞める。これはもう決定事項と言っていい。なぜ辞めるのか。それは大きくいって二つ。一つは、給与面である。私の仕事は学習塾の教室長なのだが、実質は、サラリーマンと変わらない。教室長というと聞こえがいいのか、よくないのか分からないが、一般の人は、何か教育的な仕事をしていると思われるかもしれない。実態は、半分半分といったところだ。私の仕事の大半は、営業活動と事務処理、片手間に教育(授業、生徒面談、プリント作り)をしている感じである。営業活動の半分は、夏季・冬季・春季の講習である。講習の売り上げが立たないと、教室運営はやっていけない。もう半分は、新規面談である。業界用語でいう「面契率」(面談回数に対する契約の割合のこと)を上げないといけない。面契率を上げるためには、「内部充実」(既存生徒への働きかけ、保護者への働きかけを通して、友人紹介や兄弟姉妹紹介を呼び込む)と、広告(HPの更新や校門前配布、キャンペーンの実施を通して、新規生徒を呼び込む)の二つが手段として挙げられる。事務処理とは、契約書類の登録と管理に始まり、生徒の日程表やファイル管理、学習の進捗状況の共有化、振込口座の登録、講習日程表の作成、三者面談の日程調整、タブレット教材の管理、週次報告の提出、収支表の提出、売り上げ目標の管理、講師のシフト作成と調整、生徒の授業の振り替え管理、支払いの延滞の確認とその徴収といった感じで、膨大である。今挙げたような細々とした仕事の他に、講師の代用として授業に入ったり、質問に答えたり、生徒に声掛けをしたり、時に生活指導をしたり、保護者のクレームに対応したり、営業電話を断ったり、なんだりかんだりで、まあ、私は疲れてしまったのである。で、給与面の話に戻るが、今挙げたような仕事に疲れと嫌気が差してしまったのは大前提なのだが、給料が3年間で一円も上がらないどころか、ボーナスが(講習の出来高に左右されるため)年々下がってしまい、生活していけないレベルになってしまったからだ。それが一番の理由である。本当に恥ずかしい話だが、社会人になって初めて親から借金もした。仕事が辛いから辞めるというより以前に、これでは生活が破綻すると直感するから辞めようと思うのである。

 

 もう一つの理由は健康である。仕事が大変で給料が下がって貯蓄も底をつきかけているのと同時に、体調がすこぶる悪いのである。この三年間で、体重が15キロも増加した。年々増加している。働けなくなるくらい酷く、体も心も疲弊しているのがよく分かる。人間関係が悪いのではない。寧ろ上司は優し過ぎるくらいだ。一緒に働いてくれるアルバイトの講師さんも私を慕ってくれている。生徒も可愛い。寧ろそれが後ろ髪を引かれる原因である。私がこの仕事を辞めるのは、単純に、給与面と健康面だけである。それは自己管理能力不足の面も相当に強い。私の望みは、毎月貯金できることと、健康になり、元気になり、規則正しい生活が送れるようになること。ただそれだけである。自分の生活を成り立たせること。それだけが今の自分の望みである。今の仕事を継続しながらそれをすることは、この三年間を通じて、少なくとも現在の自分にはできないことは明白だと思われる。

 

 離婚が結婚よりも大変なのと同じくらい、転職は就職よりも大変である。いざ辞めると決めた時に限って、遣り甲斐や充実を感じるようなことが起きがちである。でも、もう本当に辞めるのだ。泣いても笑っても、あと一か月だ。けじめをつけて、跡を濁さないように去りたいと思っている。

悪癖の断ち方

 理想的なルーティンを作ってみた。起きてから出発までのルーティン、家に帰ってから眠るまでのルーティン、健康管理のルーティン、勉強のルーティン、家事のルーティン、仕事のルーティン、休日のルーティン。週のルーティン、月のルーティン、季節のルーティン。ルーティンだらけである。生活とはルーティンでできていることがよく分かる。

 ルーティンとは、習慣全体を指すと同時に、個別的な習慣的行為の一つひとつを指す場合もある。ルーティンとは、規則的なものであると同時に、秩序自体を指すこともある。ルーティンは、現実的なものであると同時に、理想的なものでもある。ルーティンとは、決まりきった仕事や機械的作業、お決まりの手順を意味することから、「ありきたり」「ごく普通」あるいは「つまらない」ことを含意する場合がある。だが、私が考えようとしているものは、必ずしもそうではない。

 別に「ルーティン」という言葉にこだわっている訳ではない。routine(ルーティン)の類義語を挙げてみようか(オックスフォード類語辞典参照)。

【「決まった仕事」の類語】 
procedure(手順)
practice(実行)
pattern(型)
drill(やり方)
regime(規則的に繰り返される事象)
groove(決まりきったやり方)
program(計画)
schedule(予定表)
plan(計画)

【「決まったやり方」の類語】
formula(公式)
method(筋道)
system(体系的方法)
orders(命令)

【日本語の「ルーティン」に相当する類語】
ways(習慣)
customs(慣習)
habits(癖)
usages(用法)

 だんだんと、「ルーティン」の意味する領域が見えてきたような気がする。決まりきった仕事を、決まりきったやり方で、計画表や予定表や仕様書通りにこなしていくことで、それが体系化され、筋道となり、習慣となって、社会化されれば慣習となる。言葉遣いで適用されれば「慣用句」や「語法」となり、個人の生活的行為に適用されれば「習慣」となる。

 とにかく、私はそういうことを今やろうとしている。生活再建。そう言った方が正確かもしれない。或いは、悪癖を断ち切りたいと思っている。悪癖を良い習慣に置き換えたい。悪癖もまたルーティンである。ルーティンには二つあるのである。良いルーティンと悪いルーティンの二種である。私は、良いルーティンを継続したいと思っている。悪いルーティンを捨て去ろうと思っている。自覚している悪いルーティンの中で特に矯正したいものは次の10個である。

  • 遅寝遅起き
  • 過食過眠
  • 先延ばし癖
  • 計画倒れ
  • 浪費癖
  • 飽き性
  • 書類の管理が下手
  • 確認不足、不注意
  • 「想定力」の欠如、事前準備不足
  • 自己否定的思考様式

 何事も両面ある。大学院で多少文学を齧ったことで得た一つの教訓である。あらゆる表象、シンボルは両価値的であり、絶対的な善や悪は存在しない。それは人間の個性にそのまま当てはまる。絶対的な善人もいなければ、絶対的な悪人もいない。「良い」個性などない。個性は良くもあり、悪くもあり、それは側面である。見え方次第である。問題は、むしろ、どうやって光を当てるのか、その光の当て方である。言いたいことはそれに尽きる。だから、今挙げた10個の「悪癖」も、見方次第では、実はそんなに悪くもないのかもしれない。もちろん、自分で「悪癖」と読んでいる訳だから、矯正したいに決まっている。ただ、他人から見たら「そんなに悪いものでもない」と思われるかもしれない、という話である。伝えたいことは、自己との適切な距離の取り方である。自分は自分が思っているほど「悪く」ない。逆も然り。そんなに「良く」もない。真実の自己は、自己と他者の間にある。となれば、真の自己改善も、他者からの評価や指摘抜きにはあり得ないだろう。

 話が飛びすぎた。とにかく、私は、今列挙した10個の癖を直したい。癖が出る前に、それを制御したい。それを発動させないよう工夫したい。癖を治すための道具は何か。スマホは本来そういう時に使うべきツールである。忘れっぽいならリマインダー機能を使えばいい。紙で記録するのが面倒なら、アプリに記録させればいい。

 どのようにして悪癖を断ち切ればいいのか。一個ずつ改善案を出すこともできるが、それも少し退屈である。まずは意識することから始めたい。

 紙に書き出して、目に付く所に貼り出す。まずは意識することから。