Abyss

本や音楽、映画の感想、日常のエッセイ、旅行記などなど、生活を題材に色々書きます。

英語の勉強の再開

 家を掃除した。綺麗な丸くて白い机の上には、iPadiPhoneサーモス製のマグカップにカフェインレスのブラックコーヒーが注がれている。奥に英語の辞書や文法書や英語教育の参考書がたくさん並んでいる。教員採用試験対策の本もちらほら。

 睡眠導入剤を飲んだせいで、意識が朦朧としている。でも、寝れない。寝転がってスマホを眺めるより、こうして椅子に座ってブログを更新している方が落ち着く。室内の灯りが少しきつい。間接照明だけにする。

 宇多田ヒカルの『BADモード』(2022年)を流している。私のお気に入りのアルバムだ。5曲目の「Time」が一番好き。少し歌詞を引用してみる。

逃したチャンスが私に与えたものは案外大きい
溢した水はグラスに返らない 返らない
出会った頃の二人に
教えてあげたくなるくらい
あの頃よりも私たち魅力的 魅力的

 この曲を聴きながら一人の女性のことを思い浮かべている。その人のことを考えている。いつかどこかで再開した時、二人でこの曲を一緒に聴いてみて、「あの頃よりも私たち魅力的」と思えたらいいなと思う。時間は元に戻らない。私は彼女には今、感謝の気持ちしかない。そして心配もしている。節目節目で、報告した方がいいかなと思う。

 素直になると、言葉が自然になる。気を衒うようなことをなくすと、言葉はシンプルに、本質的に、ありのままになる。現代詩っぽくなる。いつか、暇ができたら、詩の勉強を再開したい。大学の授業で一番興味深かったのは、英詩と翻訳の授業だった。詩の魂、というと色々誤解されるから、なんて言って言えばいいのか分からないけど、例えば、坂口安吾という作家は、「必要」ということをしきりに説いておりました。

 洋楽よりも邦楽の方が詩の魂が分かりやすいのかどうか。洋楽の方が歌詞の意味を探究するから、むしろ、熱心に頭を使うからいいのかもしれない。実際、邦楽の歌詞をちゃんと考えたことってあんまりない。これも実感であるが、言語を理解する、言葉の意味を掴むというような心理状態は、その言語を対象化する、物として扱う態度なんであって、国語ではそういう心理になり難いのである。私は一応、中学高校大学で英語を学んだことになっている。大して勉強はしていない。本気で勉強してはないと思う。人と比べる必要もないけども。どんな時でも初心に戻ることができるのが、自分の長所である。

 英語の勉強を一から再開しようと思う。

 文法書を読む。文法の問題を解く。使うのは『ロイヤル英文法』『表現のための実践ロイヤル英文法』、問題集は『英文法標準問題精構』と『ロイヤル英文法問題集』など。語彙レベルを2万語から3万語までに上げる。目標は『VISTA英和辞典』(三省堂)のどこを聞かれても完璧に理解している状態。これで一応ネイティブレベルの語彙力と言える。

 ヴィスタ英和辞典[英語辞典-英和-]|辞書は三省堂|

 これでひとまずやることは明確になった。毎日1時間ずつやっていくことにしたい。文法書を読む。音読する。書き込みしながら、問題も解く。その後辞書を1時間音読する。あまり手は動かさない。とにかく音読し続ける。その後、情報カードに単語をまとめていく。

 これにしよう。

近況

 なんとなく気分が悪い。頭がぼうっとしている。不規則な生活の所為だろう。規則正しい生活を送ることを自分に義務付けたい。朝早く起きる。3食ちゃんと食べる。夜早く寝る。適度な運動をする。生活の秩序化である。今年、いや、向こう3年間くらいは、生活の秩序化をテーマにしたいと思っている。

 

 私は躁鬱病当事者である。で、躁鬱病当事者のことを、アーティストの坂口恭平氏の著書『躁鬱大学』では「躁鬱人」と定義されているので、私もそれに従うことにする。で、躁鬱人とは、気分屋的な生き方を好む人間類型であり、詳しくは、「神田橋語録」を参照してください。http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf

 

 躁鬱人の自覚。病気の自覚。健康志向は病気の自覚から始まる。躁鬱人は、坂口恭平氏いわく「日課人」である。毎日の日課が決まってないと落ち着かない。自由に何でもしてと言われると不安になる。これは実感に沿っていると思う。私は4月から学校現場に戻る予定であるが、一つ嬉しいことは、朝から夕方まで何をするべきかが明確になるということだ。朝5時半に起き、6時半に出発し、一生懸命働いて、夕方6時か7時くらいに戻り、10時くらいに寝る。平日の過ごし方はほとんど考える余地がない。余計なことを考える余地がないことが、健康上、とても大事である。

 

 朝活をした方が良い。まずは朝起きて陽の光を浴びて歩く。で、夜ちゃんと寝る。夜更かししない。夜更かしが癖になってしまった。良くないことだ。どうしても動画ばかり観てしまう。体に悪いと分かりつつもつい見てしまう。

 

 最近急激に体重が落ちている。食欲が一気に落ちた。花粉症の所為である。元気になったわけではないから、良い傾向とは言えない。ただ、目標体重の85キロまでは落としたいと思っているから、内心嬉しかったりもする。

 

 教員採用試験の勉強を再開しよう。できることを少しずつやる。一気にやらない。少しずつ、困難を分割する。そうすると少しずつできるようになる。ゆっくり、着実に、シンプルにというのが私のモットーだ。

 

 ゆっくり、丁寧に、着実に。自分に正直になり、素直になる。健康第一。生活の秩序化。体調が悪い時は、酒と煙草を控える。できることをやる。できない約束はしない。

 

 今、ここを生きる。過去を振り返らない。少し先の未来を見据えて生きる。

 

 なるようになる。流れに身を任せること。違うと思ったら立ち止まればいい。

 

 躁鬱病は病気というよりも体質、気質である。仕方ないではないか。

 

 薬はちゃんと飲もうと思う。油断するとすぐ飲まなくなる。嘘は体に悪い。飲もう。

 

真に人を賢くするもの

 読書は人を賢くしない。その時の「賢さ」とは、徳と同じ意味である。では言い換えよう。読書をしても良い人間になるとは限らない。否。私はもう偏差値を上げるとか、難関校に入学するとか、そういうことに全然興味がなくなってしまった。

 

 私の求める「賢さ」とは、要領の良さとも違う。世間知とも違う。人付き合いのうまさでもない。一体、この世に私の求める「賢さ」を体現しているような人は誰なんだろうか。

 

 「賢さ」とは、専門知識ではない。だから、専門人が「賢者」であるという訳ではない。知識人が「賢人」であることは、現代においては、稀である。

 

 私が生涯で出会った中で最も「賢い」人は誰か。否、賢さは、相対的なものではなく、絶対的なものだ。賢さとは総合的なものだ。ある一面だけ賢く、他の面ではそうではない、というようなものではない。こういう時に思い浮かぶのは、小学生から高校生までお世話になった、地元の塾の先生、O先生である。今、先生の紹介をしようとは思わない。少し疲れているから。ただ、O先生がクリスチャンだったことと、今自分がキリスト教や聖書に惹かれているのは、無関係でない。

 

 読書は人を賢くしない、というのは、要するに、読書と信仰心の問題なんだろうと思う。教化に役立たない読書は、本質的には無意味である。

 

 昔、何かの本で、外国では無宗教の人間は社会的に信用されないので、日本人は、嘘でもいいから「仏教徒」とでも言った方がいい、みたいな話を読んで知ったことがあるが、今、その気持ちがほんのり分かる様な気がする。無宗教の人間は信用ならないと、思うようになってきたからである。

 

 無宗教よりも、無神論の方がまだマシである。それが今のネット論壇に代表される無神論的な論調がもてはやされている理由なのではないか。無宗教で尚且つニヒリズムやエゴイズムを超克している人を見出だすのは極めて困難である。

 

 率直に言って、エゴイズムやニヒリズムに陥るくらいなら、信仰心を持った方がまだマシであるとさえ思う。そういう消極的な理由から、信仰というものを考えざるを得ないほうがずっとリアルだと思う。

 

 少なくとも、心理や道徳や倫理や宗教について考える機会を習慣的に設けることは大事である。

 

 教養主義。私は教養主義的な人間なのかもしれない。だが、教養は目的ではなく手段である。人生の目的や価値について考えることを抜きにした教養は、ただのディレッタンティズム、道楽である、と三木清は言っていた。

 

 人生について真剣に考えることを抜きにして、賢さは生まれない。誠実さが人を賢くするというのが、今日の結論である。

 

保守の態度

 やるべきことをやるために、何が必要かと言えば、計画ではない。がむしゃらに何かをしようとする時、計画などやっている傍からできるものだ。私に足りないのは、勢いである。切羽詰まった時に出る土壇場の力である。私は、そういう乗り切り方を、もうしたくないと思って、出さないようにしてきた。今は、それを出さないといけない。

 保守とは、土壇場で逃げない態度である。その一言だけ言いたかった。

正直にしか生きられない

 本当にやりたいことが何なのか、正直にいって、よく分からない。こんな青臭いことを考えること自体の馬鹿らしさもある。そんなことはどうでもいいから、なんでもいいから今の仕事を精一杯やって、生きていればいい、という考え方も(それは主に母親のそれだが)納得できない。私は、私の生活に納得したいと思う。本当に学校現場に戻りたいのか。そこがどういうところなのか知っているのか。本当に学級担任をやりたいのか。子供を預かる責任に耐えられるのか。耐えられそうにないのではないか。

 私は本当に自信を失ってしまったんだなと思う。昔は、自信はないが勢いがあった。今はその勢いすらない。自信がなく、ただ立ち止まっているだけだ。

 私は、安心して生活が送りたいと思っている。心身の健康を取り戻したいと思っている。少しずつでもいいから貯金したいと思う。筋トレを続けたいと思う。自炊を続けたいと思う。自己管理能力を身につけたいと思う。英語教育に携わりたいと思う。英語力も高めたいと思う。フランス語やドイツ語やロシア語も学びたいと思う。やはり、ラテン語も知らねばならないと思う。人文学の教養を身につけたいと思う。恋人が欲しいと思う。友人が欲しいと思う。何かしらサークルに入りたいと思う。

 そうだ、私は何もかも諦めているどころか、生に執着しようとしている。欲望はある。ただ、自信がなく、責任を回避しようとしているだけだ。担任はきついとか、授業に自信がないとか、保護者対応が怖いとか。それならば、学校教育ではない、教育の現場に行けばいいではないか。塾、予備校、大学、専門学校、学習センター。いくらでもあるではないか。

 私は、私のやり方で、英語を教えたいと思う。それならいっそ独立して、英語塾を立ち上げるのがいいのか。私にそんな経営能力があるのか。

 なんなら自信があるのか。何も自信がない。だが、それは、今の始まったことではない。昔から自信はないし、今も、そしてこれからも自信はないんだろう。

 そういう自分を認めるしかないのではないか。何事も不安な自分。不安とは、むしろ、私の人生の感情かもしれない。ぼんやりとした不安、と、芥川龍之介は言って死んだそうである。安心を求める心は不安である。覚悟を求める心も、また、自信のなさである。友人のKや会社の上司のKは典型的な自信家であり、なんでも挑戦し、また成功しているように見える。ただ、そうなりたいのかと言えば、案外そうでもない。自分がそうなれるとも思えない。自分には自分に合った生き方や性格があるはずだと、どこかで居直っているようにも思う。

 不安は仕方ない。不安や自信のなさは、自分の感情の根本である。孤独といってもいい。不安だからいけないのではないのだ。むしろ、不安があるから、これまで生き延びてきたとさえ、逆説的にいうこともできるかもしれない。不安とは本能である。孤独を恐れるのも本能である。本能を否定しても、肯定しても、仕方のないことである。

 で、どうするのか。今の私は、担任をすることはできないだろう。英語を教えるだけならできそうだ。だから、非常勤講師、時間講師を考えているのだ。それでいいではないか。よく観察し、自学自習する一年にしたい。忙しい一年にしたくない。心身の健康を第一に考えたいからだ。飛び込んでいこうという勇気を出せと言う方がおかしいと思う。それは自分に合っていない。母と考え方が違うのだから、それをどうこう言っても仕方ない。

 私は自分の生き方に合った生き方を選びたいと思うだけである。そこに正直になろうと思うだけである。私は父や母の意見を聞くが、それに従順になれるとも思えない。私は、案外、頑固なんだろうと思う。曲げられない人間である。曲げると体調がおかしくなる。生理的に曲げられない人間である。それを忍耐することが全然できない。

 素直に、正直に生きたいと思う。

他人に聞くことの大切さ

 また、少しだけ鬱っぽくなっている。やらねばならないことから逃げているからだ。今週の木曜日に、都内の私立学校で講師面接と模擬授業を行う予定である。来週の月曜日には理事長面接も予定されている。まだその準備が全然できていない。

 

 準備ができていない、というよりも、準備の仕方が分からないと言った方が正しいのか。模擬授業をするには、指導案を書く必要があるが、その指導案というのがどういう風に書けばいいのか、向こうが求めているのかが分からない。

 

 また、面接で何が訊かれるのかも分からない。自分自身の教育観を語ればいいのか。その学校が目指す教育観をよく理解しておく必要があるだろうが、果たしてそれはどうすればいいのか。

 

 分からない時は、やはり、他人に聞くのが早い。この面接を組んでくれたエージェントに聞くべきか。どんなことを用意すればいいのか、用意の仕方のフォーマットがあるのか。

 

 私が今躊躇している、というか、茫然としてしまっているのは、今日を含め、残り3日間、恐らく使える時間は10時間前後だろうが、この10時間を、用意の仕方を考えることに使うことはできないということだ。

 

 他人に聞く方が早い。

 

 聞いてみよう。

 

 聞いてみた。で、模擬授業の指導案のフォーマットがあるどうか、訊いてみた。

 

 また、英語教師の友人にも知恵をくれないか聞いてみた。

 

 自分で解決できない問題は、他人に聞くしかない。

 

 当たり前のようなことかもしれないが、私はそれが苦手である。

 

 また進展があったら、ここに記そう。

何をどこに記録するか

 特に書くことはない。プライベートなことがどんどん決まっていっている。こういうことを本来はブログに書くべきなんだろうが、なんとなく、いろんな方面に迷惑がかかると思い、自分の日記にも書いていない。頭の中でまとめている。

 本当に大事なことは、頭の中にある。ブログや日記や家計簿やスマホのタスク管理というのは、あくまでも、この頭の大事でない部分の代用品であり、どうでもいい記憶の外部装置として存在する。あるいは、本当に大事なことほど、どうでもいい紙の裏紙に書き、すぐに捨ててしまう。大事なことは書かないし、保管もしない。頭の中でぐるぐると回している。そして、決して忘れない。

 なぜ大切なことを紙の上や記録媒体に残さないのかと言えば、まさに今言ったように、決して忘れないと思っているからだ。本当に大事なことは、紙ではない、すぐに行動に移す。身体が問題である。大事でないことは、脳の問題であるから、後で見返すために記録する。体重とか勉強の進捗とか買い物のレシートといったものは、大事でないからこそ、自分の頭ではないものに記憶させないと忘れてしまう。そういうものは記憶というよりも記録であり、データだ。

 私はデータを軽んじているのではなく、記憶というものを区別しているのだと思う。統計学的な手法で扱うべきものを「データ」として、生活における政治的な解決を求めるものを「問題」として把握しており、前者は、すべて記録保管管理しようとする一方、後者については、機が熟すのを待ち、何かタイミングを図っている。そういうものは、丁寧な思考ではない、もっと身体的な、行動的なもので解決するものだと分かっているのだろう。言われなくても分かっているから、リマインダー機能も使う必要がない。朝晩のルーティンこそ、リマインダーされるべきだ。

 何をどこに書くかということは、もっと意識されてもいいかもしれない。

 ブログに書くことは、例えば、英語日記を始めるとか、書評や音楽評を書いてみるとか、料理のレシピを書くとか、旅行記を書くとか、商品を紹介するとか、何かしら生産的な目的で使う方がいい。

 SNSは英語の勉強の場として利用したい。

 紙の日記に書くことは、プライベートな秘密である。自分自身との対話の場として利用する。家計簿もそうである。

 アプリに書く(記録)するのは、健康管理(食事、睡眠、運動)や勉強記録、読書メーターのような蔵書管理である。

 道具使い方は、よく熟知しないといけない。